こんにちは、こころ香です。
仕事の場で説明を聞いているとき、「これ、どういう意味だろう?」
そう思った瞬間があっても、そのまま質問を飲み込んでしまうことがあります。
質問したい気持ちがないわけではありません 。
ただ、質問したあとに「どう見られるか」が、 先に頭に浮かんでしまうのです 。
評価につながりそうな場面になると、私は無意識に、目立たないほうへ身を引いてしまいます。
「評価」は、質問のずっと手前に立ち上がる
私にとっての評価は、面談やテストのような はっきりした場面だけではありません 。
もっと日常の、 何気ない瞬間に立ち上がります 。
- 複数人で説明を受けているとき
- まわりは理解している前提で話が進んでいるとき
- 質問すると、その場の流れを止めてしまいそうなとき
「私だけ分かっていないのかも」と感じた瞬間、 脳内では質問の内容ではなく、 その“あと”のシミュレーションが始まります 。
うまく聞けなかったらどうしよう 。 的外れだったら恥ずかしい 。 その結果、「できない人」と思われたらどうしよう 。
質問する → 恥をかく → マイナスの評価が残る
この流れを、心が先に想像して 「今は言わないほうが安全だ」と ブレーキをかけてしまうのです 。
評価が意識に入ると、行動が変わる
そうして評価が意識に入った瞬間、私の行動は、 自分の考えをその場で出すよりも **「自分を守ること」**へ一気に切り替わります。
- 発言をぐっと控える
- 無難な相づちに回る
- 目立たない位置に下がる
それは「質問が怖い」というより、 「失敗したあとの評価を避けたい」 という反応に近い感覚です。
結果として「質問しない」という行動を選ぶ。 そんな動きが、長い時間をかけて 体に染みついてきたのだと思います。
小学校一年生、ピアノの発表会での「言葉の入り口」
この反応の原点には、 私の忘れられない記憶があります。
小学校一年生のピアノの発表会。 緊張しながらも最後まで弾き切り、 ホッとして客席に戻った私に、 母が最初にかけてきた言葉。
それは「頑張ったね」ではなく、 **「忘れちゃったんか?」**という疑いの言葉でした。
音の余韻を残すための「間」を、 母は「弾き忘れて止まった」と捉えていたのです。
演奏は間違っていなかった。 それでも、私に向けられたのは 「正しくできていたか」を確かめる視線でした。
あとから「頑張ったね」と言われても、 最初に突き刺さった疑いの言葉のほうが、 ずっと深く心に残ってしまいました。
否定や疑いから始まる、日常の言葉たち
母は、言葉の入り口に 疑いや不安が混じることが多い人でした。
「大丈夫なの?」「うそでしょ?」「止めておきな」
心配から出た言葉だったのかもしれませんが、 私にとっては、喜びを共有する前に 「まず疑われる」という感覚が先に届いていました。
何かを報告しても、最初に返ってくるのが 「うそー(信じられない)」という反応だと、 その後に続く言葉が、 どこか遠くのものに感じられてしまうのです。
こうした積み重ねの中で、私はいつの間にか **「相手の評価の軸」**から外れないよう、 慎重に行動を選ぶようになっていきました。
評価を気にするのは、意志の弱さではありません
以前は、そんな自分を 「気にしすぎなんだろうな」と 責めることもありました。
でも今は、これは性格の欠点でも、 意志の弱さでもないと感じています。
否定されないように自分を守るため、 長い時間をかけて身につけてきた、 切実な「生きるための反応」だったのです。
評価を察知して体が守りに入るのは、 これまでの私が一生懸命に 自分を守ろうとしてきた証拠でもあります。
まとめ:評価の物差しを、少しずつ自分に返す
質問できなかった日も、 つい目立たない場所を選んでしまった場面も。
それは、あなたが弱いからではありません。
「また体が守りに入ってるな」
そのことに気づけただけでも、 自分を一つ、理解してあげられたことになります。
今はまだ、周りの視線が気になるかもしれないけれど。
これからは、外側の評価を気にする自分を責める代わりに、 「今まで頑張って守ってきたんだね」と、 自分を労ってあげられる時間を増やしていきたい。
そんなふうに、自分を許すための小さな言葉を、 一つずつ大切に拾い集めていければいいな、と思っています。



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