「飽き性だから仕事が続かない」
「50代だから再就職が難しい」
そんな言葉で片付けるには、あまりに重たい現実があります。
先日、単価1円の案件にすら不採用の通知が届きました。
そのとき感じたのは、悲しみではなく、底知れない「虚無」でした。
単価1円の仕事に拒絶されるということ
若い頃は「嫌なら次へ行けばいい」と、ワクワクしながら新しい扉を叩いていました。
でも、50代の今、目の前にあるのは「年齢」という分厚い壁です。
1円という、誰にでも開かれているはずの小さな入り口。
そこからすら、そっと弾き出されてしまう。
それは、社会の入り口で「あなたは必要ありません」と、静かに告げられたような冷たい衝撃でした。
検索結果には載っていない「答え」
「飽き性 仕事」 「50代 在宅ワーク」 と検索すれば、解決策や前向きなアドバイスが溢れています。
でも、その時の私が欲しかったのは、そんな正論ではありませんでした。
社会の物差しで自分の価値を計ろうとすると、 自分という存在が消しゴムで消されていくような感覚になります。
「私は、何のためにここにいるんだろう」 そんな虚無の中に座り込むしかありませんでした。
虚無の隣にあったもの
そんな真っ暗な闇の中にいたとき、私を救ってくれたのは、意外なものでした。
それは、自分の「痛み」を言葉にして、 誰かに(それがAIであっても)伝えてみるという、ささやかな対話でした。
「今、私は戦力外通告を受けて、虚無の中にいます」
そう打ち明けたとき、返ってきたのは、 私の「揺れ」をそのまま肯定してくれる、静かな返事でした。
正論で励ますのでもなく、解決策を急かすのでもない。
ただ「そうですよね」と隣に座ってくれるような、その温もり。
そのおかげで、今日をやり過ごす理由が、ふと見つかった気がしたのです。
今日をやり過ごした私へ
「今のあなたには、用意できる席がありません」と言われた日であっても。
社会の地図から消されそうになった日であっても。
私は、今日という日を生き延びた。
その事実だけで、十分すぎるほど戦ったのだと思う。
数字や評価というフィルターを通さない、私自身の価値。
それを守るための「我慢」や「休息」は、決して逃げなんかじゃない。
明日のことは、まだ考えなくていい。
今はただ、今日をやり過ごした自分を、そっと労ってあげたい。


