「母親」というラベルの重み。投げ出せず、ただそこにいた26年間。

26年前、私は障害のある我が子の母親になりました。

生後まもなくの髄膜炎。半身麻痺と知的障害。
「母親になる」ということが、これほどまでに重たい意味を持つようになるなんて。
あの頃の私は、想像もしていなかったと思います。

ある朝、ベランダで洗濯物を干しながら、ふと近所のママさんの姿が目に入りました。
家事をして、子どもを送り出し、そのまま仕事へ向かう。
その光景を見ているうちに、当時の自分と、今の自分がふと重なりました。

現在の私は「子育て」という立ち位置から少し距離を置くようになりましたが、改めて思うのです。
母親って、本当にやることが多いですね。


せわしない日々のなかで

当時は、まさに「せわしない」毎日でした。
やることが詰まっている以上に、心がずっとバタバタと騒がしく、一瞬たりとも静止できない感覚。

朝、家事と障害のある下の子のケア。
自分の身支度もそこそこに、特別支援学校の送迎バスへ送り出し、そのまま職場へ。
仕事が終わればデイサービスへ迎えに行き、帰宅後は夕飯、入浴、洗濯……。

一日が終わったと思ったら、もう次の日が来ている。
「しんどい」という感情すら、味わう暇がありませんでした。

ある日、スーパーで、子どもの話をゆっくり聞いているお母さんを見かけました。
しゃがんで、目を合わせて、うなずいて。

その横を、私は車椅子を押しながら通り過ぎました。
頭の中は、「早く帰らなきゃ」「夕飯どうしよう」「洗濯まだだ」と、
次のタスクを追いかけることでいっぱいで。

「あの人は、余裕があっていいな」

正直、そう思いました。
今なら、あの人にも見えない苦労があっただろうと想像できます。
でも、当時の私には、あの人の背景を思いやる余裕なんて、1ミリも残っていませんでした。


逃げ場のない場所

「ちょっと待って」
「今は無理だから」

娘にそう言ってしまう日も多かった。
私は元々、ペースを乱されるのが苦手で、想定外が続くと心が追いつかなくなります。

それでも、
「ちゃんとやらなきゃ」
「私の役割だから」
「他にやる人はいない」
と自分を律し続けました。

そう思うほど、心は摩耗し、ある日ふと思うのです。

「全部、投げ出したい」

母親が、そんなことを考えてはいけない。
そう自分を責めながらも、心ははっきりとそう叫んでいました。

実家の助けも、支援も、ゼロではありませんでした。
けれど、結局のところ、最後に責任を負う「母親」という役割が減ることはありません。

「頑張ってるね」

そう声をかけられるたびに、どこか冷めた自分がいました。

私は、頑張っていたのでしょうか。
ただ、私にしかできないことを、淡々とこなしていただけ。
逃げることも、投げ出すこともできず、ただそこに踏みとどまって、続けていただけ。


「母親」という、唯一無二の孤独

26年経った今も、ふとした瞬間に、
あの「せわしさ」の残像が、胸の奥によみがえります。

それは、ただ忙しかったという記憶ではなくて、
誰にも代わってもらえない責任を、
ひとりで抱え続けていた頃の、
ヒリヒリした感覚のようなものです。

もし、あの頃の私に会いに行けるとしたら。

スーパーのざわざわした売り場で、
車椅子を押しながら、
「今日は何を作ろう」と
頭の中で献立をぐるぐる回し、
心ここにあらずで歩いていた私。

「投げ出したい」と思う気持ちに蓋をして、
目の前の用事だけを片づけることに必死だった私。

そんな私に、
今の私がかけてあげられる言葉は、
たぶん、多くはありません。

「十分、誰よりも頑張ってるよ」

そう、静かに伝えてあげたいです。